「物数を極め、工夫を凝らす」
これは世阿弥の言葉でして.世阿弥とは能の大成者であります。
世阿弥は能の最高到達点を.「花」と言いました。
ここで大切な事は、実は「花」には、2種類ありまして。
1つ目は.「時分の花」
もう1つは.「まことの花」
「時分の花」とは.一時のニセモノの花を指します。
と言うのは、年少から舞台に立つ能役者は、14,15歳前後になると一応の知識や技術はすべて身につけ、一方、体はほっそり柔軟で、どんな動きにも応じていける。つまり端から見ると「天才」に映る。
けれども、その年頃を過ぎると、ほとんどの能役者が「ただの役者」に戻ってしまうのです。
なぜならば、「うまい」とちやほやされて慢心するからである
と言うわけで「時分の花」
世阿弥は、それではダメで、本物の花、つまり「まことの花」を目指せといっています。
ただし、それには時間もかかるし、長い間厳しい稽古にも耐えなければならないと言っている。
それでは具体的にどうしろと言うのでしょうか。
それが
「物数を極め」、「工夫を凝らす」と言うことになるのです。
平たく言えば、ありとあらゆることをやってみよう.いろいろ自分で工夫してみよう、と言うことでになります。
それによって真の進歩が可能になると言っている。
今の言葉に直せば「試す」と言う言葉に当てはまるでしょう。
試すという事によって変わる‼️進歩は、変わっていく中にある。
また「試す」には、必然性がなければならない。つまり「なぜ」と言う疑問が大事。
なぜ症状が取れたのか❓なぜ症状が取れなかったのか❓
なぜもみ返しが起こったのだろうか❓そもそもこれはもみ返しなのだろうか❓
そもそももみ返しの定義とは何なのだろうか❓
人間の技量は進歩発展するものだということを自分がどこまで信じられるか。
そして「なぜ」と言う問題意識を常に持っているか
この2つがとても大切なポイントだと思っています。
まず、鋭い感受性があること。
くだいて言えば、他人より多く感じることができるかどうか。
次は意思と能力。
進歩に向けて、強い意思は能力を引き出すものである。
最後に目的
言い換えれば自己実現欲求である。
進歩をしてどうなりたいのか、何になりたいのか、何を目的にしているのか。
言うまでもなくこの目的は、漫然としていてはダメ。
目標が明確であればあるほど大きなエネルギーを生むのである。
一口に進歩と言うけれども、分解するとなかなか難しいものです
学院長より
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